Krishnamurti イメージなき観察    Ver 1.21


―イメージを持たない生―




私たちは常に数知れないほどの経験をしています―
意識している、していないに関わらず。
各々の経験が心に痕を残し、
それは来る日も来る日も積み重なって、イメージを形成します。

誰かがあなたを侮辱しました。
その瞬間、あなたはその人についてのイメージを作り上げます。
あるいは、誰かがあなたにお世辞を言った―再びイメージが形成されます。
そのようにして、私たちの心は絶えずイメージを形成しているのです。

では、それを―絶え間ないイメージ形成を―終わらすことは可能でしょうか。
それを終わらすためには、
まず最初に、それがどうやって生じるのかを見なければなりません。
「何らかの挑戦に対し適切に応答しないとき、それはイメージを残すに違いない」
と云うことをあなたは見ます。
あなたが私を馬鹿と呼ぶなら、即座にあなたは私の敵になります。

あなたが私を馬鹿と言うとき―そのとき、その瞬間、
私は選択なしに非難なしに、あなたの言うことをただ聞いて、
強烈に気づいていなければなりません。
あなたの言葉に対し何の感情的な反応もないなら、
そのとき、どんなイメージも形成されないのです。

それゆえ、ひとはみずからの反応に気づいていなければなりません。
それに根づく時間を与えてはならないのです。
その反応が根づく瞬間、イメージが形成されてしまうからです。
それができますか?

それをする為には強烈な気づきが必要となります。
あなたの全存在をかけて、侮辱やお世辞、あなたに対して言われた何であれ、
それを明晰に聞くための。
そのとき、あなたはイメージが全く存在しないということを知るでしょう。

イメージは常に過去についてのものです。
それが楽しいイメージなら、私たちはそれを反芻して味わうことを望み、
それが苦痛なら、忘れ、消し去ることを望みます。
それゆえ欲求が生じます。
一つのものは取って置きたいし、もう一つのものは消してしまいたい。
そして、この欲求は葛藤を引き起こします。

しかし、あなたが何の選択もなしにこのすべてを観察し、このすべてに気づいているなら、
そのとき、あなたは見るでしょう。
あなたの脳は―それは何千万年にもわたる進化の産物ですが―
過去、経験、記憶の堆積物に他ならないことを。
その過去のなかに安全があります。
過去は常に即座に応答します。
あなたが、現在の挑戦に出会うとき、この過去の応答、反応を遅らせ、
挑戦と応答(反応)との間にギャップを生じさせることがイメージを終わらせることです。
このことが起こらないかぎり、私たちは常に過去のなかを生きることでしょう。
いいえ、“私たち”それ自体が過去なのです。
そのなかに自由はありません。
絶え間ない戦い、未来に向かって進み続ける修正された過去―
それは修正されてはいても、なお過去の動きなのです。
この動きが存在する限り、人は決して自由であれないでしょう。
彼は常に、葛藤の、悲しみの、混乱のなかにいることでしょう。
では、このイメージの即座の形成がないよう、
過去の反応が遅らされるということが起こり得るでしょうか。



同じ家に一緒に暮らしてはいるけれど、
各々が自分自身の欲望、自分自身の恐怖、自分自身の悲しみで孤立しています。
それを私たちは「人間関係」と呼んでいます。

あなたは、あなた自身についてのイメージを持っており、
彼女についてのイメージも持っている。
そして彼女もまた同じくそうである。
そして、これらイメージ同士が関係します。

私たちは、これらのイメージがどのようにして形成されるのか、
なぜそれらは形成されたのか、
そして、そのようなイメージなしに生きることがどのようなことなのかを
見出さなければなりません。
イメージを持たない生が何を意味するのか、
そして、イメージを持たない生が可能かどうか、
これから共に見出していこうとしています。



そんなに簡単に「はい」と言わないでください。
観察者なしに、内語し続ける存在なしに、
過去、知識でいっぱいの存在なしに観察することは、
もっとも難しいことの一つなのですから。

どうか、それをやってみて下さい。
そうすれば、あなたはそれが何という途方もないことであるか分かるでしょう。
そして、そのとき、
あなたが今まで決して見てこなかったということを知るでしょう、決して!

あなたは常にイメージを通して見ます。
木を見るとき、あなたのまわりの人々を見るとき、
彼、あるいは彼女についてのイメージを知識として持っています。
それは、これまでの過去何十年間にも渡って築き上げられてきた蓄積物です。

イメージとしての「私」が、イメージとしての「あなた」と話しをし、関係します。
したがって、そこに実際の関係はありません。
私たちは、生のなかのあらゆるものを、
イメージと共に、記憶と共に見るという、この明らかな事実を見て下さい。
私たちは決して新鮮な目で見ないのです。



それは、記憶のすべて、思考、イメージなどの過去の反応のすべてを介入させることなしに、
私の意識内容そのものを観察することができるかどうか、という問題なのです。



いかなる過去によっても汚されていない、
どんな記憶のかき傷も持たない新鮮な心―
そのような心だけが、何であれ新しくものを見ることができるのです。



あなたは自分自身を、あなたのまわりの人々を、道路のむこうの木を、
言葉も反応もなしに、それについての如何なるイメージも混じえることなしに、
見つめたことがあるでしょうか。
一つの言葉もイメージもなしに、何であれものを見ることができるかどうか、
試してみるのです。



まさに接触―見ることの瞬間、感受が生じる。
感受は次にイメージを引き起こし、そこに欲望の起源がある。

では、まさに感受の瞬間、
その直後に思考が瞬発的にイメージを生み出してしまうことなしに、
そこに時間的なギャップが生じるということがあり得るでしょうか。

それを見出すためには、あなたの精神、頭脳、感覚のすべては鋭敏で、
最高度に研ぎ澄まされていなければならないのです。



どうやって私は自分自身を理解したらいいのでしょうか。

まず第一に、私は自分自身について、どんなイメージも持っていてはなりません。
どんなことも前提していてはなりません。
私は自分の思考、感情、話し方、行為の仕方、信念の様式などを、
鏡のなかの自分の顔を見るように、非難なく、比較なく、じっと見つめ、
それに気づいていなければなりません。



私があなたを真に見たいなら、私は連想に干渉させてはなりません。
しかし、言葉、連想は直ちに干渉します。
なぜなら、その背後に快楽があるからです。
このことを本当に見て下さい。

私は「思考は感情だ」と言いました。
思考なしには感情はありません。
そして、その背後に快楽があります。
思考、感情、快楽、言葉―これらは相伴います。

思考なしの、感情なしの、言葉なしの観察がエネルギーなのです。
しかし、それは現在、言葉、連想、快楽、思考、時間によって浪費されています。
したがって注意深く見るためのエネルギーがないのです。

まず最初に、花、雲を注意深く見なければならないのはそういう訳なのです。
言葉なしに、それほど素早く入ってくる連想の何もなしに雲を見ていることができるなら、
そのとき私は自分自身の生の全体を―そのすべての問題を―
言葉なしに、注意深く見ることができるのです。



新しい感情を―たとえ、それが何であれ―過去を介入させることなしに
観察することができるでしょうか。



あなたが私をおだてる―すると脳は即座にそれを記憶します。
あるいは私を侮辱する―脳は再び記憶します。
それは四六時中記録している機械なのです。
そして、それが私たちの経験、知識、ものの見方となって、
私たちの現在の行為-反応を形作ります。

脳が自身のありのままの作動する姿を見つめることによって、
自身を条件づけから解き放つことが可能かどうか。
それを、ひたすらに問うのです。



全体の構造を直ちに注意深く見、それに気づいているためには
鋭敏さがなければなりません。
現在の自分についての、あるいはあるべき自分についての何らかのイメージ、
快楽に基づいているそのイメージがあるなら、その鋭敏さは否定されます。

敏感であり、何の抵抗もなしに内面的に全的に傷つきやすい心は、
並外れた強さとエネルギーを持っています。
なぜなら、それは生―現実・事実―と戦っていないからです。
生に溺れてもいないし拒絶してもいません。

そのすべて、その構造の全体を見てしまうとき、
その一瞥ですべてを破壊するのに充分です。
この過程の全体が瞑想なのです。



問題を、それが起こるつど終わらすこと。
それを次の瞬間に持ち越すことなく。

誰かがあなたを侮辱しました―それを終わらしなさい。
それを重荷として持ち越すことなく。
それが言われたとき、それを済ますのです―後で、ではなく。



どんな判断も評価もなしに外的対象を―木や花や雲などを―見ること。
それはそれほど難しいことではありません。

しかし、その見る対象が、私の妻、上司などになったとき、
その人に関する如何なる感情、いかなるイメージもなしに見るということは、
ほとんど不可能なこととなります。

私はその人に関するイメージを持っています。
そのイメージは過去から現在まで、
数多くの出来事、エピソードを通じてずっと続いてきました。
そして、親和感、腹立ち、性的欲求などは、
その築き上げられたイメージによってもたらされるのです。

あなたが自分の妻、または自分の隣人を見つめるとき
―たとえ、それがあなたの心の中でのことであったにしても―
何が起こっているのか見てみなさい。
人は自分が作り出したイメージを通して、彼または彼女を見つめるのです。
夫と妻が、それぞれ自分についてのイメージと相手についてのイメージを持っているとき、
そこにどんな関係があるでしょう。
関係を持つのは、それらイメージ同士なのです。
そして、そのイメージは、これまでの経験の記憶の総体であり、
喜び、悲しみ、いさかい、喧嘩、性的快楽、あれやこれやなのです。
それは、これまでの年月を通して蓄積されてきたものです。
それらの記憶に基づいてイメージはできあがり、
それを通して私は見、そして言うのです―
「私は自分の妻については知っている、彼女のことは分かっている」と。

しかし、その「知っている」というのは本当でしょうか。
私は単にイメージを知っているに過ぎないのではないでしょうか。

生きているものを、私は知ることはできません。
私が知ることができるのは死せるイメージのみです。
はっきりものを見るとは、
いかなるイメージも印象も差し挟まずにものを見ることです。
それをやってごらんなさい。
そうすればあなたは、そこに驚くべき美があることを理解なさるでしょう。



あらゆる経験が、快楽、または苦痛の記憶という残留物を残します。
「経験」という言葉は、「何かを通り抜けること」を意味します。
しかし私たちは、決して何ものをも通り抜けません。
その「何か」が、かならず痕跡を残すからです。
もし、あなたが何か際立った経験をし、
なおかつそれを完全に通り抜けられるなら、
あなたはそれについては自由なはずです。
そこには記憶という残留物、傷跡は残りません。

意識的であれ無意識的であれ、
なぜ、あらゆる経験は記憶の跡を残すのでしょう。
こう問うのは、記憶の痕跡は無垢たることの妨げとなるからです。

ひとは経験の構造をよく理解しなければなりません。
あなたは昨日、夕焼けを眺めました―
それは水面を虹色に輝かせる光、驚くべき光でした。
あなたはそれを見、楽しみます。
そこには荘厳な美しさと喜び、色彩と深遠さとがありました。
それを見て、あなたは言うでしょう―「何と美しいのだろう!」
そして今日もまた、
あなたはあの同じものを経験したいと思い、同じ場所へ行ってみます。
しかし、もはやあなたは、それを昨日の記憶なしに見ることができません。
その新鮮さは、既に昨日の記憶によって損なわれてしまっているからです。

同様に、あなたが私を侮辱する、あるいはお世辞を言います。
その侮辱、またはお世辞は、
苦痛、あるいは快感の記憶として私の心に跡を残します。
そこには蓄積があります。
心は幾千もの経験の積み重ねによってますます重苦しいものとなっていきます。

さて、あなたが私を侮辱するとき、
それに瞬発的に反応してしまうのではなしに、それをよく見、
それに注意を払って耳を傾けることができるでしょうか。

あなたが私のことを「くだらない人間だ」と言ったとします。
それはその通りかも知れません、
私はくだらない人間なのかも知れません。恐らくはそうでしょう。

あるいは、あなたが私にお世辞を言う。
私はその全体をジッと見つめます―
相手が言ったことの意味と、それに対する自分の反応、
心の動き、反応に隠された本音、欲求をです。
すると、あなたが言った侮辱、ないしお世辞は、心に何の傷跡も残しません。
心は、あなたが与えた侮辱に対してであろうとへつらいに対してであろうと、
あるいは夕日やその他多くの物事の美についてであろうと、
敏感で非常に注意深いのです。
そのような心は常に油断なく働き、
それ故、たとえ幾千の経験を受け入れようとも自由です。



私が真に注意を払うとき、心はイメージを作るのを止めてしまいます。
そのときイメージの形成はありません。
私は何のイメージも持たずに見、聞くことができるのです。

見ているものを過去の知識でもって解釈していることに、
したがってそれを新鮮に見ていないことに気づくときのみ、
あなたはそれを新鮮に見ることができます。

そして、そこで問いが起こります。
これらのイメージは、どうして形成されてしまうのだろうか。
イメージを作るメカニズムとは何なのだろうか。

誰かが私を批判します。
私はそれに傷つき、それは私の心に跡を残します。
この傷跡が記憶、イメージです。
しかし、それが言われつつあるまさにその瞬間、
私が気づいているなら、その傷跡はまったく残りません。

不注意がイメージを育てるのです。
注意は心をイメージから解放します。
これは非常に単純な事実です。

同様に、私が怒ったとき、
私が完全に注意深いなら、
現実の怒りの知覚を妨げる「過去」が入ってくることはありません。
そこに不注意はないからです。
そのとき心は並外れて静かになり、
それゆえ、体、神経、脳細胞もおのずから静まります。

たいてい私たちの脳は、ある決まった道筋にそって機能しているに過ぎません。
記憶、決まりきった対応、習慣―そのお決まりの反応のパターン。
それゆえ、頭脳はますます取るに足らない鈍感なものとなります。
その頭脳が活性化され、途方もなく活動的にならなければなりません。
この強烈な活気をもたらすためには、
自分のしている一切のことに気づいていることが必要なのです。



そのようにして精神は、
いまイメージを作り上げないことによって、
それ自身のなかのイメージを空っぽにできるのです。
すると、中心のまわりの空間ではない、ある空間が広がり出すのです。
しかし、もし私が、いまイメージを持てば、
私はそれを過去のイメージに関連づけてしまうのです。

そしてもし、人が掘り進み、更に奥へ奥へと入っていくなら、
そこに聖なるもの―思考によって思いつかれたものではなく、
いかなる宗教とも無関係な聖なるもの―があるのです。



どんなものを観察する場合にも、
その対象物に関するイメージを思い浮かべなければ、あなた自身に凄まじいことが起こるのです。



他の誰かより少々利口だと感じるとき、快感が入り込む。
議論で誰かに勝つとき、または身体的にずっと剛健だ、あるいは美しいと感じるとき、
すぐに自分自身が重要だという気持ちが起こる。
自分が重要だというこの気持ちは必然的に葛藤、苦悶、苦痛をもたらす。
なぜなら、君は絶えず自分の重要性を維持しなければならないからだ。



「見る」ということは極めて難しいことです。
ひとはその技を持たなければなりません。
おそらく、あなたは今まで一度として木を見たことがないのです。
あなたが木を見るとき、あなたのすべての知識が一気にそこに入り込んできて、
木を実際に見ることを妨げるからです。
そして、おそらく、
あなたは今まで一度として、あなたの妻や夫、友人を見たことがないのです。
あなたは彼や彼女について、そしてあなた自身についてイメージを持っており、
そのイメージがあなたが見ることを妨げるからです。
あなたが見るとき、歪み、色づけがあり、
「観察者」と「観察されるもの」との間の分離があるに違いありません。

まず最初に、あなたはあなた自身についてのイメージから自由でなければなりません。
どんな歪みもなしに、明晰に、正確に見るためには、
あらゆる形のイメージ―知識、先入観、価値観―を捨てていなければなりません。
その全ては、あなたがあなたの前にあるものを明らかに見るとき消え去ります。
そして、その明晰さからの行為があります。

国と国との間、思想と思想との間、人と人との間に分離があります。
その分離は最大の危機です。
なぜなら分離のなかには戦いがあるからです。
しかし、心が分離の危険性を非常に明晰に見るとき―
理論的にではなく、情緒的にではなく、実際にそれを見るとき―
そのとき、まったく違った種類の行為があります。
それゆえ、見ること、観察する術を学ぶことがとても重要なのです。

ひとの存在のまさに根底に、抜本的・根源的な変容、革命がないかぎり、
私たちはこのままであり続けることでしょう。
私たちが関わっているのは、現在のような人間が、
自分自身のなかに根本的・本質的な革命をもたらすことができるかどうかです。
特定の理念・思想に従ってではなく、
実際に自分の「あるがまま」を見ることによって。

自身の現実の姿の知覚そのものが根源的変容を引き起こすのです。
「あなたは空腹であるに違いない」と人に言われることと、
実際に自分で自分の空腹に気づくこととは全く違ったことです。
その一つでは、あなたは自分自身の直接の知覚を通して自分が空腹であることを知ります。
そのとき行為が起こります。
しかし誰かに「空腹ではないか」と言われたに過ぎないなら、
まったくそうではないでしょう。

同じように、ひとは自分自身の眼で、
実際に自分自身の現状を観察し理解しなければなりません。
自分自身を知ることが最高の英知です。
しかし私たちのなかでそれをした人は殆どいません。
私たちは、私たちのあるがままを見るための忍耐も強さも情熱も
持ちあわせていないのです。
そして人に教えて貰うことを望むのです。



あなたは、好きでない誰か、愚かだと思っている誰かの言うことに
耳を傾けることができるでしょうか。
その人の言うことを、あなたのハートでもって聞くことができるでしょうか。





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